呉服屋から歯車メーカーへ。

大久保歯車の創業者、大久保利家は老舗の呉服店・豊田屋から独立、大正7年行商専門の呉服店を開業。屋号を郷里長岡にちなんで越後屋とする。その後、着々と商売の幅を広げていく。そしてひょんなことから歯車との出合いを果たす。上得意であった清水鉄工所が、輸出用の自動車部品、特に歯車をつくっていた。高度な製造技術を持って商売はかなり繁盛していたが、経営者の放漫経営がたたって傾き始める。利家はその運転資金を融通するも、自身も取り返しのつかないダメージを受ける事態にまで進んでしまった。 そこで、清水鉄工所に本格的に肩入れをすることを決心し、越後屋は残したまま鉄工所の経営に乗り出すことにする。そして、合資会社に改組。1938年2月11日、合資会社清水鉄工所を設立した。

大転進のとき。

ちょうどその頃、日本国内は急速に戦時体制に組み込まれていく。1938年5月には国家総動員法が施行され、一定金額以上の生活用品の販売を禁止。縮緬や白生地銘仙なども対象となった。利家は呉服屋の将来に強い不安を覚えるが、鉄工所の経営がある!鉄工所は軍需産業に組み込まれて発展するはず!という想いに至り、遂には呉服屋をたたむ決断をする。1939年12月31日、合資会社大久保鉄工所に商号を変更。新たなスタートを切る。 積極的な設備投資を行い、名実ともに歯車メーカーとしての一貫生産体制を確立。三菱重工業の協力工場となり、受注量も飛躍的に増え、その勢いのまま、工場を世田谷に移転した。ちなみに移転が完了したのは1945年5月25日の夕刻。その夜、東京に開戦以来3度目の大空襲があり、旧工場は跡形もなく焼け落ちた。間一髪の移転劇だった。

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